ある時、橋本さんと互いの仕事の話をしている時にこんな言葉を投げかけた。 「左官の仕事は建物自体が壊されない限り、その場所に存在し続けるから形として見えるので良いですね」と。その投げかけ自体には、特段、深い意味はないのだけれど、編集やデザイン、写真といったように2000年代を契機にデジタル化が進み、形としてそこにないものを探求し続ける身からしたら、フィジカルとしてそこに存在しているということへの憧れのような気持ちでいたのだ。
けれど、その言葉を受けた橋本さんは「良くも悪くも残ってしまうんですよね」とどこか浮かない表情をしていたことが、どこか自分の心の中に引っ掛かりとして残っていた。
月刊『左官教室』で編集を務めた小林澄夫氏の著書『左官礼讃』は、左官職人にとってのバイブル的な一冊。ご多分に漏れず、橋本さんも著者にサインをもらい、ファンレターよろしく、手紙のやり取りをするほど。その著書に編まれた言葉の一つ一つが土壁の土が呼吸するかのように、ページを開く度に思わぬ発見や頭の中にある靄にもなっていない靄を短く端的な言葉で晴らしてくれるから、何度も読み返したくなる味わい深い一冊なのだ。
この『左官礼讃』で氏は、「かつて、左官は第四の棟梁、家づくりのアンカーだった」と記述している。真意としては建築工程において、左官職人がその建物の最後の美観や防火性、調湿性を含んだ耐久性に大きく貢献しているということを、古くはそう言われていたとして用いている。肖像画で例えれば、最後の瞳をどのような色、形にし、どの位置に配置にするかによって、肖像だけでなく絵画全体の印象をも左右してしまうというようなこと。つまり命を吹き込むということで、左官職人が建物づくりのアンカーマンとして最後の仕上げを塗り上げることで建物に命を吹き込み、物質的には無機質に分類されうる建築物を有機的なものへと昇華させる重大な役割を担っているとことを礼讃している表現といえるのではないだろうか。
個人的には橋本さんの仕事に向き合う姿を直に見ていると、現代においてもその役割は変わらずそこにあるのだと感じるのだが、業界全体で見てみると、時代の流れから、クロスや塗装、さらにはタイルなどの壁づくりのバリエーションが増えたこともあり、『第四の棟梁』と言われていた時代に比べると、その役割も時代の流れに伴って変わってきてしまっているようなのだ。
冒頭の橋本さんの浮かない表情もそうした背景からくる、その“存在を残す”、“存在が残される“といった左官職人としての重責の表れからくるものなのだろう。
そんな思いを持ちながら、今日も壁に土を塗るのだ。
1943年静岡県浜松市生まれ。
1968年明治大学卒業。
同年(株)黒潮社入社。2007年9月まで月刊「左官教室」を編集。
2008年から月刊「さかん」を編集。09年11月の18号以降休刊中
著書に『左官礼讃』『左官礼讃Ⅱ』