「最近、新しい散歩コースを見つけたから、時間があったらどう?」
そんな誘いに乗り、橋本さんのいつもの散歩道をなぞるかのように二人で春の予感を漂わせた光が漂う外に歩みを進めた。相変わらず毎朝の散歩は欠かさず行なっているらしい。日常の忙しさを理由にそうした習慣から手を離してしまう人たちも多い中でしっかりと続けているのはよほどの理由があるのだろう。
御牧原の大自然の中では、陽射しは春を感じさせてくれるものの、私たちの足元や目の前には信州の厳しい寒さによって茶色く枯れた雑草や水面が凍った溜池、吹き荒ぶまだ冷たい北風を前にただただ立ち尽くす松などの多くは、未だ来ない春の到来を待ち侘びているような様子だった。
散歩をしている時は、こうした自然の変化を毎日感じているのかと思いきや、何を考えて歩いているのかと聞いてみると「散歩をしている時は、特には何も考えていないけれど、強いて言えば、自分の中のものがペラペラと剥がれ落ちている感覚かな」と歩きながら教えてくれた。外の刺激というよりは歩く行為の中で内面のことに目を向けながら足を進めているのだそうだ。




橋本さんと話をしている中で「ゆらぎ」というキーワードが頻出してくる。使うタイミングとしては言葉にならないような感覚などを指し示している時が多い。こうした「ゆらぎ」が生まれる状況としては、その言葉にはならないような現象を誘発しているもの(物)とそれらを観て感じるもの、つまりは観測するもの(者)との呼応する関係性の中で表出した結果、そこに在る現象なのではないのだろうかと思う。
これは18世紀の哲学者ジョージ・バークリーが投げかけた「誰もいない森で一本の木が倒れたとき、その木は音を出したか」という有名な命題にも通じるだろう。この命題について、物理学の解釈としては音を出したと考え、哲学的な解釈は誰もその音を聞いていないので、その音は存在しないとする、現代であっても意見が二分される興味深い思索、論考なのだ。
「ゆらぎ」については木と違いそもそも物理的なことではないので、ゆらいでいる物を観測している者がいなければやはり、「ゆらぎ」というものは存在しないのではないだろう。先の散歩についても都市生活者からしたら絶景と呼べるほどの大自然の中を早朝にたった一人で独り占めし、その大地をゆっくりと噛み締めている身体感覚それ自体は、本人にとっては何も考えていないようでいて、確実に自分自身の内面と呼応し、身体的な感覚と思考がまさしくゆらいでいる状態になっているはずなのだ。
言葉を変えれば外からの感覚である外側と内側の思考とが調和している状態ともいえ、橋本さんは今後数年かけてそうした「ゆらぎ」を形にした、いや形であってカタチでないものを表現していきたいと、いつもの散歩道で語っていたのだ。
エネルギーなど広がりまたは強度を持つ量の空間的または時間的な平均値からの変動のこと。